遅延証明書


毎日遅れる中央線
自殺者数が一番多い中央線
毎朝毎晩わたしが揺られる中央線
相対性理論が明日は始業式と気づく中央線

目を閉じて耳を澄ませば誰かの話し声、車輪と線路の軋轢、アナウンスの女声
鼻を利かせれば誰かのカレーの匂いと誰かの家の匂いと香水と汗の匂い

毎朝毎晩電車で通る彼の家の前
窓の反射に映る自分の顔
朝と夜とで見えるものが違う窓の外
朝見えたものが夜みえなくて、朝見えなかったものが夜見える
明るすぎて見えなかったあのビルの中も、暗くなってビルの中だけ明るくてよく見えるようになる

今晩は
電車を降りたらティファニーのあのミルクが効いたミント色の紙袋をぎこちなく、でも大事そうに片手で握りしめた男性がホームを歩いていた
わたしはホームの階段で自分の体の半分以上あるスーツケースを引っ張り上げる年増の女性を見ているだけで手伝わなかった

でもあるときは
電車を降りたら肩を怒らせて誰彼構わずぶつかって歩くスーツ姿の還暦手前の男性がホームを歩いていたし
わたしは妊婦マークをつけた女性に眠気と戦って席を譲った

私が今考えていることは数年後には恥ずかしいと思うことかもしれない
でも、若いうちにしか感じることができないことや若いうちにしか認めることができない文章があるから残しておこうと思う
私は昨日のラーメンが美味しかったことも一昨日のあの人のおかゆの味も忘れてしまうし、数年前に好きだった人がくれたチョコの味も忘れてしまったし、はたまたそれは妄想でもらったことすらなかったのかもしれないと考えているから
美味しかったであろうあのチョコの味は忘れたくないし、今電車に揺られて感じていることを1ミリも忘れたくない

今一番忘れたくないのは、前に立ってる三十路あたりの男性が網棚に手を伸ばした時にチラリと見えた水玉のパンツ

呼吸をするたびに自分から酸化していく気がして時々怖いけど、その酸化していく恐怖に駆り立てられて目を凝らす感覚は好き

今私が大好きなあの人にもらったシャツを着てイヤリングをして指輪をはめた私は、厚底を履いて大きめの黒いコールハーンを羽織ってお団子に髪をまとめた私は、今日の靴がロッキンホースバレリーナならもっとツヨイオンナになれたのにと思っている
でもロッキンホースバレリーナで歩く夕方のアパートとアパートの隙間は妙に寂れてオレンジ色がどうしようもなく胸を締め付けてしまうから
私がロッキンホースバレリーナを履くときはツヨイオンナになりたいとき
ロッキンホースバレリーナを履いた私なら怖いものは何もなくて、だからこそ夕焼けのアパートを縫って歩く時にあの靴を切なくセンチメンタルな靴になんてさせたくない
いつまでもロッキンホースバレリーナの魔法が解けませんように
明日も同じ気持ちでちょっと遅れた中央線に乗れますように